肋骨鎖骨のブログ

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「誰も傷つけない表現」論争について思うこと①ー『ルックバック』への見解

※ある程度『ルックバック』の一連の騒動を見てきた人向けの記事です。事の顛末を知りたい人は他の人が書いてる客観性が高いものを探して読みましょう。

 

WEBマンガである藤本タツキルックバック』の表現が批判を受けて修正されたことで、ネットが炎上しています。そして話は拡がり、「誰も傷つけない表現」問題が今はホットです。「誰も傷つけない表現なんてないし、面白くない」みたいな言説が散見されます。

 

『ルックバック』に対する主な批判は統合失調症ステレオタイプを犯人にしており、偏見を助長しかねない」というものです。こちらの論点は斎藤環のnoteでも読んでおいて下さい。

事のあらましは誰かがきっと解説しているでしょうから、ここでは自分の見解を述べます。

 

今回はまず『ルックバック』について私の当時のファーストインプレッションを振り返りつつ、修正後の『ルックバック』とそもそも作品が修正されることへの見解を述べます。そして「誰も傷つけない表現」について少し考えてみます。

 

今回を①としたのは、次回に最近よくTLに流れてくる特撮やプリキュアの性別問題についての所感と、その論争で欠けている視点を提示したいと思っているからです。こちら②で「誰も傷つけない表現」についてしっかり扱おうと思っています。


1.『ルックバック』への個人的見解

1.1.当時の私の感想

まずは私(といってもこのブログの書き手とTwitter垢は完全に一致しているわけではないのですが)の当時のツイートを見てみましょう。

これは朝起きてから『ルックバック』の存在を知り、他の人の感想を調べるとかはせずにそのまま書いたものです。TLで話題になっているところから知ったので完全に他の人の感想を見ていないわけではないですが、ほとんどそれが自分の感想に影響を与えたということはないかと自負しております。

 

 

これらのツイートを整理すると以下のようになります。今回論点となっている犯人像についてまとめます。

  1. 通常であれば犯人の描き方の唐突さ(背景のなさ)を批判する
  2. しかし、「かの事件」の話と読んだ際にはその表現の正当性が認められる
  3. もっと言うと、この「唐突さ」こそが『ルックバック』が「かの事件」を表していることの証左である

といったところです。ツイートだけ見ると評価していないように見えますが、これは評価しているからこその斜めに構える厄介オタクの姿勢です。同作者の『チェンソーマン』は普段ジャンプ漫画を読まない自分でも大ハマりした作品で、今でも定期的に読み返しているほどです。

当時の感想を一言に集約したのがこれになります。「かの事件」がモチーフのひとつになっている可能性が高い以上、この姿勢になります。これはのちに批判される「パクりやがって」の表現が確信犯的であり、これによって『ルックバック』が「かの事件」をモチーフにしている十分性が確保されました。自分はこの一言でそう読むしかなくなりました。

 

また一夜経った後に絶賛していたリベラルめの批評家が謝罪に至っていたことを顧みると、表現を留保付きで褒めたことは先見の明があるとも言えるかもしれません。

ちなみに「かの事件」とは2年前の7月18日に起きたあの事件です。自分はまだ受け入れることができていないので、こう呼んでいます。そしてのちの論点となりますが、それを踏まえると「パクりやがって」っては統合失調症ステレオタイプとして描かれたのではないと判断するのが妥当です。大きな声では言いたくないことですが。そしてあくまで作者目線の話です。

 

まとめますと、犯人の描き方には唐突感がありますが、その唐突な描写に意味が認められます。私はこれで良いと考えていましたし、今でもそれは基本的に変わりません。

 

1.2.批判への所感

絶賛から一夜が明け、『ルックバック』への批判が見られるようになります。前述したように「犯人の統合失調症ステレオタイプをなぞったような描き方」が批判されました。実際に統合失調症の人が事件を起こしたことはないのにとは精神科医である斎藤環の弁です。

さらに統合失調症当事者からの反発の声も上がりました。

結論から言うと、これらは無視できない意見だと考えています。自分は当事者の声というものに高い価値を置いているからです。特にピンポイントでその属性を持つ人へのステレオタイプが見られる場合は重要度は増し、今回はそれに該当すると判断しています。

ですが無視できないからといって表現を変更するべきとは思ってはいません。今回の場合は必然性が認められるので修正の必要はないと考えていました。「誰かを傷つける」の文脈にあえて載せるなら、物語上の必然性が「誰かを傷つける」度に勝っていると私は判断したからです。

ただしその「必然性」は、作者は絶対そう読んで欲しいと明言したくない読みをした場合に限ります。ここが今回の厄介なところなのでしょうね。重いですし粋じゃないですからね。

 

1.3.修正後の作品についての感想

ですので修正されたことには驚きました。批判への対応策は3つほどありました。

1.反応しない

2.その意図はないことなどを文章で表明する

3.表現を修正する

あっても文章をリリースしてどこまで突っ込んだこというのかって気でいたのでビックリしました。

ちなみに修正版を読んだ直後の感想が以下です。

犯人がクリエイター蔑視マンに変化したことで外圧によって京本的な心が損なわれた話となり、創作についての作品の側面が強くなりました。オタクは登場人物をみんな同一人物として捉える読み方が好きですが、少なくとも犯人はその中から疎外されました。その是非は人によるかと思いますが、自分は「悪くない」か「これはこれであり」としか言えません。

修正後の問題点としては唐突さはそのままであることが挙げられます。もちろん吹き出しと新聞の内容を変えただけで物語の大筋は変わっていないからですが、確信犯的な「パクりやがって」がなくなったことで、唐突さに正当性を与える読み方が難しくなりました。ゆえに私が個人的に好きではないご都合主義の唐突さになってしまったことは否めません。

ですがこれも修正があったという文脈で見るとまた違ってきます。ただ、修正後の作品単体で読むとやや評価が下がるというのが個人的な意見です。

ただし私のような「かの事件」に関わるもの全てにセンシティブになっている人間にとってはこれはありがたい配慮ともいえます。「唐突さ」のみで「十分」なのですから。タツキ自身もそう読めるようにやりすぎたと思ったことが修正の結構大きな原因だったのではないかと、私は思います。私が知る範囲での藤本タツキは、そこらへんを自覚的にはぐらかす人です。なので修正前の表現はタツキらしくありません。

 

つまり、統合失調症への偏見の助長だけを理由に修正したのではなく、「かの事件」へのあまりに直接的な表現にタツキ本人が悔いたことも修正の理由のひとつだったのではないでしょうか。

 

1.4.作品が修正されることへの所感

コミックスにおいて何かしら修正が入ることはよくあることです。ですので今回の修正に至った批判が「表現狩り」であるとは全く思いませんし、修正されたことが「負けた」「屈した」とはなりません。さらに批判をした人が「表現を変更させて気持ち良くなりたい」と考えているわけでは断じてないでしょう。いるとしたらそれは病的ですが、そう思ってしまうのもかなり病的です。

私はネット時代のいいところは作者と読者の双方向性だと考えているので、読者のリアクションを受けて作品が変わることは良いことだと捉えています。

ただし修正前がアーカイブとして残らないのがネット漫画の悲しいところですね。そこの問題が今回明るみになりましたが、それはまた別問題です。

 

大事なことは作者が読者の批判を受けたうえで自由に創作できることだと思うのです。批判されて仕方ないから変える、ではなく読者とより良いものを作り上げる感覚です。

 

そのために大事なことは、作者を守ることです。編集部やその他タツキの周りの大人はその責務を果たせたのか。その助けになったのは一番の功労者は間違いなく小学三年生のながやまこはるちゃんです。彼女のお陰でタツキは守られた面は絶対あるでしょう。周りの大人はもっと頑張れ。

 

今回は無料で不特定多数に読まれ、また修正前の作品がモノとして残らないWEB漫画だったことが騒動を大きくしました。

ですがいろんな意見がつくのは自然現象ですし、それによって表現が変わることも同じく自然現象です。このダイナミズムを楽しむくらいがこれからの時代ちょうどよいのではないでしょうか。そこに「勝ち」も「負け」もありはしません。

 

『ルックバック』については、修正前の表現は7月19日0時に配信されたという文脈で一番その正当性が認められるので、今はもう心の中に留めておくのが一番の鑑賞方法ではないでしょうか。優れたものは心にいつまでも刻み込まれますから。

私は作者の決定に従いますし、その決定の中で一番楽しめる読み方をします。

 

2.「誰も傷つけない表現」について

「誰も傷つけない表現」はありません。当たり前です。

ですが「誰も傷つけない表現」があるかないかは観測の限りほとんど問題になってないと思うのです。大抵の場合「誰も傷つけない表現」なんてないんだからという「正論」でまっとうなものも含む批判を無効化する場合でしか見ません。これは結構ずるいです。

ですから「誰も傷つけない表現」があるかないかを論点としているひとを見かけたら注意が必要です。

 

さらに言ってしまえば誰かを「傷つける」かどうかは作品自体の問題ではないでしょう。読み手が「傷つけられる」かどうかは読者がどのような文脈で読むかに依存します。もちろん全く切り離せるものではないですが、「傷つける」かどうかは作品によらない以上、問いが成立しておらず、仮に成立していても議論が不毛になることは確実です。前述のとおり、批判を無効化したいだけのアイテムでまともな議論ができる気がしません。同じように一考の余地のある批判を「クレーム」と片付ける所作もお行儀が悪いです。

 

作品そのものよりも環境が大事だと言う話は次回詳しくします。

 

そもそも『ルックバック』において「誰かを傷つける表現」の是非が問題になったことは一度もありません。ジャンプ+が言っている通り「作中の描写が偏見や差別の助長につながること」が問題なのです。

「この表現・描写が誰かを傷つけるか」は問いが破綻していますが、「この表現・描写が特定の属性に対し偏見や差別の助長につながるか」は成立します。

 

ここを混同している人が多いような思います。ですので一見それっぽく見える「誰も傷つけない表現は誰も救えない」は色々おかしいところがあります。

『ルックバック』の文脈でならそもそも「誰も傷つけない表現」は問題になってないですし、「誰も傷つけない表現」を「偏見や差別を助長しない表現」と言い換えたら意味不明です。字面通り読んでも「んなことなくね」以上の感想が出ません。ただちょっと厄介なのは「誰も傷つけない表現」は存在しないのでこの問いに反駁することができないところです。もう悪魔の証明です。

ですので「誰も傷つけない」≒偏見を助長しないと捉えた時に、偏見を助長せずに誰かを救う作品として私はプリキュアを挙げます。ここは次回詳しくやりたいのでここら辺で。

 

3.まとめ

•修正前『ルックバック』の表現は某事件の文脈で読んだ時に正当性が認められるが、読者がそのつもりもないのに某事件を連想してしまう表現は再考の余地がある。特に作者はそう読まれることを嫌いそう。

統合失調症ステレオタイプ批判には耳を傾けるべき。当事者の声はなおさら。

•修正は統合失調症ステレオタイプ批判によるものだけでなく、あまりにも直接的に某事件モチーフにしたことへの作者の後悔があったからではないか。

•修正されること自体は自然現象で、そこに「勝った負けた」を持ち込むのは病的。

•作者と読者の双方向性を維持しつつ、作者が自由に創作できる環境を守ることが第一。

「『誰も傷つけない表現』があるかどうか」は問いが破綻しているし、成立していても愚問である。批判を封じ込めたいがために使われるので注意。

•偏見を助長するかどうかを勝手に「誰かを傷つけるかどうか」にすり替えるな

•私は作者の意向に従って楽しむ

 

こんなところですかね。次回もよろしくお願いします。近いうちに書きます。