肋骨鎖骨のブログ

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「誰も傷つけない表現」論争について思うこと②ー宇崎と千歌ちゃんは誰に「燃やされた」のか?「ツイフェミ」について今更考える

前回の記事はこちら

「誰も傷つけない表現」論争について思うこと①ー『ルックバック』への見解 - 肋骨鎖骨のブログ

前回の記事では、「『誰も傷つけない表現』があるかどうか」という問いは批判を無効化するために使われるので注意が必要という話をしました。

そして今回はプリキュアや戦隊・ライダーについて語るはずだったのですが、予定を変更してオタクが敵視しがちな「ツイフェミ」なる存在について考えてみます。

 

前回のおさらい!

「誰かを傷つけるかどうか」は、作品そのものの問題というよりは読者がどのような文脈で読むかに依存します。なので「誰も傷つけない作品」は存在しません。読者の読み方次第だからです。

しかし、「誰も傷つけない作品」がないからといってなんでもありとしてはなんの生産性もありません。極論を言ってレスバに勝った感を出すのは最近流行っていますが、それは何も考えずに一番楽な「批判」をしているだけです。ある程度は自分で考えて自分なりの意見を持ちましょう。

ジャンプ+によると『ルックバック』が修正に至ったのは「作中の描写が偏見や差別の助長につながること」を懸念したからです。そうです、「この作品や描写は誰かを傷つけるかどうか」は不毛ですが、「この作品や描写は偏見や差別の助長につながるか」は問えます。

 

宇崎と千歌ちゃんは「燃やされた」?

こう聞くと宇崎ちゃんの献血騒動な沼津の千歌ちゃんのスカート騒動を思い浮かべる人もいるでしょう。この2件で「ツイフェミ」なる個人・集団に嫌悪感を持つようになったオタクは多いでしょう。お前はどう考えているんだ、どっちの味方なんだと思っているでしょうから一言で答えると「そんなに間違ったことは言っていない」です。上から目線の言い回しになってしまったのはごめんなさい。

無論すべてのツイートやツイッターアカウントに賛同しているわけではありませんが、私はある程度の「配慮」は必要だと思っている派なので、俗に言う「ツイフェミ」に近い方かと思います。

よく「ツイフェミ」に「燃やされた」と言う人がいますが、「ツイフェミ」とは誰で、「燃やす/燃やされる」とはどういうことなのでしょうか。

 

「ツイフェミ」は実在するのか?

まずは「ツイフェミ」とは誰のことなのかを考えてみます。

ここで少し考えてほしいのは、あなたが「ツイフェミ」と想定している個人や集団は本当にいるのかということです。大抵の場合あなたが「ツイフェミ」を目撃したのはまとめサイトなどの切り抜きではないでしょうか。

そういったところは叩きたい・叩きやすいものだけを意図的に切り抜いていたり、まとめ方やタイトルで曲解しており、現実に即していません。pv やフォロワーを増やしたいがための煽動に引っかかっているだけです。

そもそもツイッターアカウントは一個人の一側面でしかありません。1人で複数のアカウントを持つ人も多いですよね。私は一つの垢でこういったオタク批判をしつつエロ絵をいいねし、日常ツイをするので中々フォロワーが増えませんし、減るばかりです。そういったちょっと矛盾しているくらいが人間なのですが、ツイッターランドでは思ってたのと違う側面を見せるとすぐフォローが外されます。

そんな一個人の一側面でしかないツイッターアカウントのうちの一ツイートの実在性はなかなか疑問です。そんな一ツイートの切り抜きを寄せ集めて作り上げられた「ツイフェミ」は、素材は現実のものを使っていますが実在はしておらず、叩くために/叩きやすいように作り上げられた存在にすぎません。そしてそれはサイトのpvやフォロワーを増やすための工夫で、まんまと釣られているわけです。いわば「切り取りの(悪意のある)切り取り」です。

実際に「フォロワーを増やすためにツイフェミ叩くか〜」「ツイフェミ叩けばフォロワー増えるぜ」と言っている垢を複数見たことがあります。ツイッターはフォロワーを増やすためや、いいねを貰うためにフォロワー受けの良さそうなことを言うようになると終わりです。それはただのポジション取りですから(とはいえ政治批判は伸びるのに自分のYouTubeの紹介ツイには誰もいいねを押さない大物垢を見ると悲しい気分にはなります)。

フォロワー稼ぎのための架空の「ツイフェミ叩き」にまんまと乗せられていないか、一度考えてみましょう。わかった上でやってるならオーケーです。ただし、場所は考えましょう。

もちろんこれも誰かやどこかの層の肩を持っているとかそういうことではないです。ただ自分はオタクとしてオタクに言いたいことがあるだけです。

 

「燃やされる」とはどういうことか

表現やキャラクターが「燃やされる」とはどういうことか。先程私は宇崎や千歌ちゃん問題に関して、ある程度の「配慮」が必要と言いましたが、この「配慮しろ」と「燃やされる」は同じことなのでしょうか。

「燃やされる」とはおそらくある表現が「クレーム」によって撤去や修正を余儀なくされることを指すと思われます。前回扱った『ルックバック』もこれにあたり、ゆえに激怒している人が多いということです。

前回私は作者と読者が双方向に影響し合うことは良いことだと述べました。さらに批判をすべて「クレーム」と一括りにする姿勢に苦言を呈しました。その上で作者が自由に創作できる環境を守ることが一番大事だと言いましたね。

『ルックバック』と今回の違うところは、作者がはっきりしないところです。コラボの主催者でしょうか?原作者でしょうか?コラボ元でしょうか?それとも描かれてあるキャラクターでしょうか?

よくわかりませんね。多分わかる人がいたら教えてくれるとありがたいですが、今回はぼやけていて作者の権威が薄いところが重要だと思うのです。

なので私の結論はこうです。次からうまくやってね。うまくやるとは、ちゃんと「配慮」してねということです。

私は悪くない人に迷惑をかけたくないので抗議はしませんが、する人がいてもいいと考えています。ただし、悪くない人に迷惑があまりかからないやり方で、意味のあることをしましょう。ですがこれは方法の話で別問題ですし、抗議することは否定しません。

 

「配慮」とは何か

ここまで読んでくれた読者なら気づいていると思いますが、私は文脈というものを非常に大事にしています。ゆえに一側面だけを切り取られることを毛嫌いしています。

しかし、アニメや漫画がコラボで公に出ることは、原作のキャラクター性や作品の雰囲気などの文脈はブッた斬られます。献血のポスターに描かれているのは「センパイを好意からからかう宇崎ちゃん」ではなく「ほおを赤らめている胸が大きいアニメキャラ」です。千歌ちゃんも「スカートが短く、貼り付いているように見えるアニメキャラ」となります。

オタクは感覚が麻痺していることに気づきましょう。冷静に考えてると胸がすごくデカイことが笑いのネタになってることはちょっとおかしいです。というか一般の感覚とはだいぶズレています。私は『ひぐらしのなく頃に」が好きですが、最近は〇〇ちゃん(一応ネタバレ防止)がどう死ぬのかをワクワクしながら毎週見ています。この楽しみ方は「ひぐらし」を見ていない人からするとかなり異常です。今これを聞いて衝撃を受けた方もいるのではないでしょうか。他にも漫画を読んでいると非オタクの親に「この子たちは裸にボディペインティングしてるの?」と言われたことがあります。

つまり、文脈から離れても大丈夫な描き方を採用しろというのが私の見解です。これはオタクを否定しているのではなく、新たなチャンスだと考えています。

 

「配慮」の好例

好例はFGOです。FGOはソシャゲですが、その登場キャラクターはかなり露出度の高い格好をしています。献血のポスターで紐パンのちびっ子や何故か下乳だけ丸出しな服を着ている子がそのまま採用されたら流石にビックリするでしょう。

FGOは5周年の時に都道府県ごとにキャラクターを割り当てて新規イラストを新聞の一面にしました。

Fate/Grand Order 5周年記念広告 under the same sky

この時はいつもは露出の多い子も服を着込みました。これでいつもより露出が減って何事だ!と怒っている人は見たことがありません。

もちろんFGOは超大型コンテンツですのでここまでやれとは言えませんが、文脈を離れて公に出ることはオタクにとってもメリットがあるということです。

 

結論

コラボ時の「配慮」とは、元の文脈から切り離されても元を知らない人にも受け入れられる描き方をしようということです。ここで極論を持ち出されると困りますが、批判されたものよりも良いものを考えることはできるでしょう。実際に変更するかはコスト面が大きそうですが、自分は「次回があったらもっと良いの作ってね」です。

「燃やす」とは変更や撤廃が起きるかどうかが問題になりますが、自分はそこにあまり価値を置いてません。前回も言いましたが勝ち負けを争ってるわけではないですし、コストなど違った変数が入り込んでくるからです。

ですが私は「配慮」されたものが好きであり、高く評価します。こういう文脈があるから〜って反論はその意味では微妙です。

結論を言います。表現が将来的に「配慮」された形になることは良いことである。しかし批判は悪くない人に迷惑が掛かりにくい方法を取るべきだ(=「燃やす」は方法の問題)、です。

 

おわりに

ちなみに今の千歌ちゃんはこんな感じだそうです。私は、前のときより好きです。

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「誰も傷つけない表現」論争について思うこと①ー『ルックバック』への見解

※ある程度『ルックバック』の一連の騒動を見てきた人向けの記事です。事の顛末を知りたい人は他の人が書いてる客観性が高いものを探して読みましょう。

 

WEBマンガである藤本タツキルックバック』の表現が批判を受けて修正されたことで、ネットが炎上しています。そして話は拡がり、「誰も傷つけない表現」問題が今はホットです。「誰も傷つけない表現なんてないし、面白くない」みたいな言説が散見されます。

 

『ルックバック』に対する主な批判は統合失調症ステレオタイプを犯人にしており、偏見を助長しかねない」というものです。こちらの論点は斎藤環のnoteでも読んでおいて下さい。

事のあらましは誰かがきっと解説しているでしょうから、ここでは自分の見解を述べます。

 

今回はまず『ルックバック』について私の当時のファーストインプレッションを振り返りつつ、修正後の『ルックバック』とそもそも作品が修正されることへの見解を述べます。そして「誰も傷つけない表現」について少し考えてみます。

 

今回を①としたのは、次回に最近よくTLに流れてくる特撮やプリキュアの性別問題についての所感と、その論争で欠けている視点を提示したいと思っているからです。こちら②で「誰も傷つけない表現」についてしっかり扱おうと思っています。


1.『ルックバック』への個人的見解

1.1.当時の私の感想

まずは私(といってもこのブログの書き手とTwitter垢は完全に一致しているわけではないのですが)の当時のツイートを見てみましょう。

これは朝起きてから『ルックバック』の存在を知り、他の人の感想を調べるとかはせずにそのまま書いたものです。TLで話題になっているところから知ったので完全に他の人の感想を見ていないわけではないですが、ほとんどそれが自分の感想に影響を与えたということはないかと自負しております。

 

 

これらのツイートを整理すると以下のようになります。今回論点となっている犯人像についてまとめます。

  1. 通常であれば犯人の描き方の唐突さ(背景のなさ)を批判する
  2. しかし、「かの事件」の話と読んだ際にはその表現の正当性が認められる
  3. もっと言うと、この「唐突さ」こそが『ルックバック』が「かの事件」を表していることの証左である

といったところです。ツイートだけ見ると評価していないように見えますが、これは評価しているからこその斜めに構える厄介オタクの姿勢です。同作者の『チェンソーマン』は普段ジャンプ漫画を読まない自分でも大ハマりした作品で、今でも定期的に読み返しているほどです。

当時の感想を一言に集約したのがこれになります。「かの事件」がモチーフのひとつになっている可能性が高い以上、この姿勢になります。これはのちに批判される「パクりやがって」の表現が確信犯的であり、これによって『ルックバック』が「かの事件」をモチーフにしている十分性が確保されました。自分はこの一言でそう読むしかなくなりました。

 

また一夜経った後に絶賛していたリベラルめの批評家が謝罪に至っていたことを顧みると、表現を留保付きで褒めたことは先見の明があるとも言えるかもしれません。

ちなみに「かの事件」とは2年前の7月18日に起きたあの事件です。自分はまだ受け入れることができていないので、こう呼んでいます。そしてのちの論点となりますが、それを踏まえると「パクりやがって」っては統合失調症ステレオタイプとして描かれたのではないと判断するのが妥当です。大きな声では言いたくないことですが。そしてあくまで作者目線の話です。

 

まとめますと、犯人の描き方には唐突感がありますが、その唐突な描写に意味が認められます。私はこれで良いと考えていましたし、今でもそれは基本的に変わりません。

 

1.2.批判への所感

絶賛から一夜が明け、『ルックバック』への批判が見られるようになります。前述したように「犯人の統合失調症ステレオタイプをなぞったような描き方」が批判されました。実際に統合失調症の人が事件を起こしたことはないのにとは精神科医である斎藤環の弁です。

さらに統合失調症当事者からの反発の声も上がりました。

結論から言うと、これらは無視できない意見だと考えています。自分は当事者の声というものに高い価値を置いているからです。特にピンポイントでその属性を持つ人へのステレオタイプが見られる場合は重要度は増し、今回はそれに該当すると判断しています。

ですが無視できないからといって表現を変更するべきとは思ってはいません。今回の場合は必然性が認められるので修正の必要はないと考えていました。「誰かを傷つける」の文脈にあえて載せるなら、物語上の必然性が「誰かを傷つける」度に勝っていると私は判断したからです。

ただしその「必然性」は、作者は絶対そう読んで欲しいと明言したくない読みをした場合に限ります。ここが今回の厄介なところなのでしょうね。重いですし粋じゃないですからね。

 

1.3.修正後の作品についての感想

ですので修正されたことには驚きました。批判への対応策は3つほどありました。

1.反応しない

2.その意図はないことなどを文章で表明する

3.表現を修正する

あっても文章をリリースしてどこまで突っ込んだこというのかって気でいたのでビックリしました。

ちなみに修正版を読んだ直後の感想が以下です。

犯人がクリエイター蔑視マンに変化したことで外圧によって京本的な心が損なわれた話となり、創作についての作品の側面が強くなりました。オタクは登場人物をみんな同一人物として捉える読み方が好きですが、少なくとも犯人はその中から疎外されました。その是非は人によるかと思いますが、自分は「悪くない」か「これはこれであり」としか言えません。

修正後の問題点としては唐突さはそのままであることが挙げられます。もちろん吹き出しと新聞の内容を変えただけで物語の大筋は変わっていないからですが、確信犯的な「パクりやがって」がなくなったことで、唐突さに正当性を与える読み方が難しくなりました。ゆえに私が個人的に好きではないご都合主義の唐突さになってしまったことは否めません。

ですがこれも修正があったという文脈で見るとまた違ってきます。ただ、修正後の作品単体で読むとやや評価が下がるというのが個人的な意見です。

ただし私のような「かの事件」に関わるもの全てにセンシティブになっている人間にとってはこれはありがたい配慮ともいえます。「唐突さ」のみで「十分」なのですから。タツキ自身もそう読めるようにやりすぎたと思ったことが修正の結構大きな原因だったのではないかと、私は思います。私が知る範囲での藤本タツキは、そこらへんを自覚的にはぐらかす人です。なので修正前の表現はタツキらしくありません。

 

つまり、統合失調症への偏見の助長だけを理由に修正したのではなく、「かの事件」へのあまりに直接的な表現にタツキ本人が悔いたことも修正の理由のひとつだったのではないでしょうか。

 

1.4.作品が修正されることへの所感

コミックスにおいて何かしら修正が入ることはよくあることです。ですので今回の修正に至った批判が「表現狩り」であるとは全く思いませんし、修正されたことが「負けた」「屈した」とはなりません。さらに批判をした人が「表現を変更させて気持ち良くなりたい」と考えているわけでは断じてないでしょう。いるとしたらそれは病的ですが、そう思ってしまうのもかなり病的です。

私はネット時代のいいところは作者と読者の双方向性だと考えているので、読者のリアクションを受けて作品が変わることは良いことだと捉えています。

ただし修正前がアーカイブとして残らないのがネット漫画の悲しいところですね。そこの問題が今回明るみになりましたが、それはまた別問題です。

 

大事なことは作者が読者の批判を受けたうえで自由に創作できることだと思うのです。批判されて仕方ないから変える、ではなく読者とより良いものを作り上げる感覚です。

 

そのために大事なことは、作者を守ることです。編集部やその他タツキの周りの大人はその責務を果たせたのか。その助けになったのは一番の功労者は間違いなく小学三年生のながやまこはるちゃんです。彼女のお陰でタツキは守られた面は絶対あるでしょう。周りの大人はもっと頑張れ。

 

今回は無料で不特定多数に読まれ、また修正前の作品がモノとして残らないWEB漫画だったことが騒動を大きくしました。

ですがいろんな意見がつくのは自然現象ですし、それによって表現が変わることも同じく自然現象です。このダイナミズムを楽しむくらいがこれからの時代ちょうどよいのではないでしょうか。そこに「勝ち」も「負け」もありはしません。

 

『ルックバック』については、修正前の表現は7月19日0時に配信されたという文脈で一番その正当性が認められるので、今はもう心の中に留めておくのが一番の鑑賞方法ではないでしょうか。優れたものは心にいつまでも刻み込まれますから。

私は作者の決定に従いますし、その決定の中で一番楽しめる読み方をします。

 

2.「誰も傷つけない表現」について

「誰も傷つけない表現」はありません。当たり前です。

ですが「誰も傷つけない表現」があるかないかは観測の限りほとんど問題になってないと思うのです。大抵の場合「誰も傷つけない表現」なんてないんだからという「正論」でまっとうなものも含む批判を無効化する場合でしか見ません。これは結構ずるいです。

ですから「誰も傷つけない表現」があるかないかを論点としているひとを見かけたら注意が必要です。

 

さらに言ってしまえば誰かを「傷つける」かどうかは作品自体の問題ではないでしょう。読み手が「傷つけられる」かどうかは読者がどのような文脈で読むかに依存します。もちろん全く切り離せるものではないですが、「傷つける」かどうかは作品によらない以上、問いが成立しておらず、仮に成立していても議論が不毛になることは確実です。前述のとおり、批判を無効化したいだけのアイテムでまともな議論ができる気がしません。同じように一考の余地のある批判を「クレーム」と片付ける所作もお行儀が悪いです。

 

作品そのものよりも環境が大事だと言う話は次回詳しくします。

 

そもそも『ルックバック』において「誰かを傷つける表現」の是非が問題になったことは一度もありません。ジャンプ+が言っている通り「作中の描写が偏見や差別の助長につながること」が問題なのです。

「この表現・描写が誰かを傷つけるか」は問いが破綻していますが、「この表現・描写が特定の属性に対し偏見や差別の助長につながるか」は成立します。

 

ここを混同している人が多いような思います。ですので一見それっぽく見える「誰も傷つけない表現は誰も救えない」は色々おかしいところがあります。

『ルックバック』の文脈でならそもそも「誰も傷つけない表現」は問題になってないですし、「誰も傷つけない表現」を「偏見や差別を助長しない表現」と言い換えたら意味不明です。字面通り読んでも「んなことなくね」以上の感想が出ません。ただちょっと厄介なのは「誰も傷つけない表現」は存在しないのでこの問いに反駁することができないところです。もう悪魔の証明です。

ですので「誰も傷つけない」≒偏見を助長しないと捉えた時に、偏見を助長せずに誰かを救う作品として私はプリキュアを挙げます。ここは次回詳しくやりたいのでここら辺で。

 

3.まとめ

•修正前『ルックバック』の表現は某事件の文脈で読んだ時に正当性が認められるが、読者がそのつもりもないのに某事件を連想してしまう表現は再考の余地がある。特に作者はそう読まれることを嫌いそう。

統合失調症ステレオタイプ批判には耳を傾けるべき。当事者の声はなおさら。

•修正は統合失調症ステレオタイプ批判によるものだけでなく、あまりにも直接的に某事件モチーフにしたことへの作者の後悔があったからではないか。

•修正されること自体は自然現象で、そこに「勝った負けた」を持ち込むのは病的。

•作者と読者の双方向性を維持しつつ、作者が自由に創作できる環境を守ることが第一。

「『誰も傷つけない表現』があるかどうか」は問いが破綻しているし、成立していても愚問である。批判を封じ込めたいがために使われるので注意。

•偏見を助長するかどうかを勝手に「誰かを傷つけるかどうか」にすり替えるな

•私は作者の意向に従って楽しむ

 

こんなところですかね。次回もよろしくお願いします。近いうちに書きます。

 

【日記】良い日とはどんな日だろう

 だいたいの日を無駄にしている実感がある。大学に入ってからは特にそうだ。

 そんな中で今日は良い日だったなぁ〜って満足しながら眠りにつく日がたまにある。

 そんな日をリストにしてみた。

 

  1. 午前中を有意義に使えた日
  2. 新しい関係を構築した日
  3. やるべき課題が完了した日
  4. 業務を複数進められた日

 

1.午前中を有意義に使えた日

 大学生の午前は大体寝てるだけである。自分の場合はラヴィット→ノンストップ→ヒルナンデスの惰性の黄金ローテをかましていると気が付いたら午後になってることがよくある。

 なので朝早く起きてタスクを一つでもこなせると素晴らしい一日をきれる。

 

2.新しい関係を構築した日

 人間関係で新たな出会いがあった日は良い日である。その場限りでなく、自分の人生に登場するCV付きのキャラクターが追加されるのは大変喜ばしいことである。

 また既存の知り合いに対して関係のステージが上がった日も素晴らしい。モブBに名前がついたり、メインキャスト昇格したりするのは人生の小さくない分岐点だからだ。

 

3.やるべき課題が完了した日

 だいたいのやるべき課題は一日あれば終わるものだ。それを終わらせられないのは単に締め切りに余裕をかましているだけである。

 なので課題を終わらせられた日はやるべきことを最高効率でこなした日である。コストパフォーマンスがよく、達成感もある。

 

4.業務を複数進められた日

 私は自分に甘いのでシングルタスク人間を自称している。なにか業務をする際にはその前後でパワーの充電(という名の怠惰)が必要になる。

 やる気起きない日は爪を切るだけで一日が終わることがある。爪切りとは今まで放置していたものに対処するわけだから、かなりの決意が必要である。ゆえに爪切りをしようと心に決めてから動くまでに1時間は充電時間がほしい。さらにその決意の代償である心労から回復するのに1時間の休憩は欲しい。

 そんな言い訳ばかりしているので一日で出来ることのキャパが尋常じゃなく少ない。

 ゆえに一日に二つ以上タスクをこなせた日は良い日である。「本をしっかり読むのに加えて何かやるべき課題もやる」程度で万々歳である。私は活字が苦手なのでまともな本相手だと5Pで寝落ちしてしまう。なのでちゃんと本が読めてかつ他のこともできた日はなんと素晴らしいことか。

 

そんなわけで「良い日」を紹介しました。ちなみに今日は良い一日でした。もうちょっと本は読みたかったけど。

(ネタバレあり)ローラがプリキュアになったことについて+あとまわしの魔女との関係

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ゆらめくオーシャン!キュアラメール!

 

 トロプリは歴代でも一番好きなシリーズかもしれない。明るいし、キャラ立ってるし、なにより「今いちばん大事なことをやる!!」ってコンセプトがいいですよね。敵幹部もみんな魅力的です。

 なかでも一番好きなキャラクターが人魚のローラ。人魚の王女様になるために人間界にやってきた人魚の女の子。性格は「ちゃっかり者の自信家で、思っていることをなんでも正直に言ってしまうタイプ」(公式サイトより)。

 自分の「好き」に真っ直ぐなまなつ(キュアサマー)と自分に絶対的な自信を持つ、ちょっと偉そうなローラが良いコンビです。優しくていつも周りに合わせてしまってNOが言えないさんご(キュアコーラル)は、そんな2人に感化されてちゃんとじぶんの「好き」を言えるようになります。キュアコーラルの技が「ばってんシールド」で✖️をつくってシールドにするのが彼女の成長を表しています。

 

これまでのあらすじ

 

 人魚はプリキュアになれないので自分の代わりに戦ってくれるプリキュアを探していたローラ。4人のプリキュアを見つけ、まなつらと作ったトロピカる部の部室に入り浸ります。普段はマーメイドアクアポットのなかに入ってますが、抜け出して放送室で歌をうたうなど陰ながら学園生活を楽しみます。

 そんなローラはひょんなことからみのり(キュアパパイア)と入れ替わり、人間の身体を満喫します。そして自由にみんなと同じように歩き回れる人間の身体に憧れます。さらにみんなとお揃いのマニキュアを塗りますが、人間界には足に塗るペディキュアなるものがあることを知り、塗ってみたくなります。正直「入れ替わり回」というネタ回でローラ心情を変化させて物語を大きく動かしたのは、見事としか言いようがありません。

 

ローラがプリキュアに!!!

 

  • あとまわしの魔女と対峙

 ローラは敵の罠にはまり、あとまわしの魔女たちのところに連れて行かれます。監禁を抜け出し、あとまわしの魔女と対峙するローラ。

ローラが人間になりたいことを見抜き、人間になる契約を持ちかけるあとまわしの魔女。しかしこの提案をローラは突っぱねます。「あなたの力は借りない!わたしの願いはわたしが叶える!」

 

  • 絶対に許さない!

 あとまわしの魔女のもとを去り、グランオーシャンの王女さまからパワーアップアイテムを渡されたローラ。戻るとプリキュアたちが敵幹部2人の襲来+2体のゼンゼンヤラネーダに大苦戦しています。水中でやられるキュアサマー。水中で変身解除されて大丈夫なんでしょうか。

 プリキュアみんな大苦戦。まなつは特に重傷です。大好きなみんなをこんな目にあわせたことにローラは大激怒。「絶対に許さない!」と怒りを爆発。そのとき王女さまから渡されたアイテムが光り、ローラは変身します。

 

  • ローラが人間に!!

 「ゆらめく大海原(オーシャン)、キュアラメール!」おそらくプリキュア史上いちばん足を見せつけてくる変身バンクでしょう。ペディキュアがきれいです。おお、お高貴…

 プリキュアになってもいつも通りやる気パワーカムバックをしてくれるのは嬉しい。そしてシンクロナイズでビクトリーをキメるキュアラメール。足高らかです。

 変身を解除するとなんとローラに足が生えています。「わたし、人間になれた〜!!!」とはしゃぐローラ。みんなも喜びます。

そして次回からは正式に転校生として学校に入学します。これからの展開に目が離せないですね!

 

感想

 

 プリキュアの功績のひとつは、女の子にちゃんと「怒る」ことを肯定した点だと思います。『ハートキャッチプリキュア』が象徴的ですが、名乗りのセリフが「私、堪忍袋の尾が切れました!」と「海より広い私の心も、ここらが我慢の限界よ!」です。

 今回のローラも「絶対に許さない」という強い気持ちがプリキュアのトリガーを引きます。誰か(大切な人)のために怒ることができるのがプリキュアなのです。まさに初代の「女の子だって暴れたい」を継ぐ、変わらないプリキュアの精神です。

 

  • 人魚が人間になる是非

 今回一部で物議を醸しているのは「人魚であるローラが人間になることの是非」です。人魚に誇りを持っていたローラがそこまでの迷いもなく人間になるのは確かに多少の違和感を感じます。

 ただし今回のプリキュアのコンセプトが「いま一番なことをやる!」ですから、それに則ったローラの選択は最適解でしょう。

 もちろんこの選択があとで尾を引くことは確かでしょう(人魚だけに)。

 具体的には本好きのみのりが言っていた人魚の「等価交換の原則」です。足と引き換えに美しい声を失った原作の人魚。そんな人魚のありかたを一蹴したローラですが、今後は彼女の身に代償が降りかかるでしょう。「美しく儚い」人魚のイメージをその高慢さ(褒め言葉)で覆してきたローラ。今後もどんどん欲張っていろんな困難を跳ね返していってほしいですね。

 

  • あとまわしの魔女とローラ

 ローラは王女さまのことを王女さまと呼ぶので、おそらく血縁関係はないか遠いと思われます。そして今回の所業を見ていると、あとまわしの魔女がローラのお母さんである可能性が浮上してきます。

 あとまわしの魔女がローラのお母さんだとすると、途端に今回の話が「娘の願いにいち早く気づいて、その願いを親切で叶えてあげようとした優しいお母さん」の話となります。それを「あなたの力は借りない」と突っぱねられたのはちょっとかわいそうです。

 

  • あとまわしは悪いことか?

 そう考えるとあとまわしは努力せずに願いを叶える親切心にも繋がります。努力をあとまわしにしても生きていける社会は魅力的です。敵幹部のチョンギーネが社畜からやる気パワーを奪って、会社に行かなくてもいいと言った回は賞賛を浴びました。チョンギーネは本業はコックですから、魔女のために伸びない麺を開発しました。あとまわしのために技術が発展することがわかります。

 あとまわしの魔女たちは本業じゃないのに魔女のためにかったるいながらもプリキュアと戦っていて、いい人たちです。仲も良さそうでなかなか良い職場です。

 この「あとまわし」とどう折り合いをつけるかが今後の注目ポイントですね。

 

終わり

今後のプリキュア

  • ローラの等価交換
  • ローラとあとまわしの魔女の関係
  • 「あとまわし」とどう折り合いをつけるか

に注目です。今後が楽しみですね!!!

 

身近な人の死にそなえて

20年程度生きてきて未だに親族の死を経験したことがない。母方も父方の祖父母どちらもだ。

けれどもここ数年、テレビで見てきた人、好きだった俳優や音楽家、ネット上の知り合いの死は幾度か経験している。

だからといって「あの時自分がこうしていたらあの人は死ななかったかもしれない」なんて後悔するほどの影響力は自分にはなく、ただただ静かに心に刻み込むだけである。

つまり、自分が一方的に知っているだけの間柄の人に対して、自分ができることなどないのだ。

 

しかし、自分の身近な人はどうであろうか。私の遠方に住んでいる方の祖父母は、2年ほど前から骨折や持病でみるみる弱ってゆき、ついには家に住むことができなくなった。

最後にあったのはコロナが広まるちょっと前であり、それ以来会うことができていない。

何かを悟ったのか、そのとき私は家の内観の写真を撮り回り、こっそり祖父との会話を録音した。それと、祖母の肩を揉んだ。

 

芸能人が亡くなったとき、自分の中にあるのは無力感だけだが、身近な人の死にはそなえることができる。おそらく私の祖父母や両親は私が生きている間に亡くなるだろう。そのときに後悔しないようやるべきことはやれるようになりたいと思う。

今はコロナ禍で別々の介護施設に暮らすようになった祖父母にまったく関わることができていない。自慢できるほどの大学には入ったものの就職は果てしなく微妙である。実績でこれ以上喜ばすことはできないと思うし、正直今やれることはない。

 

コロナがひと段落してもどれだけ会えるのかは謎だが、せめてそのときは側にいてあげたいと思う。

 

また、私は孫が自分に丁寧語で話すようになったくらいで死んであげたいと思う。

目薬がさせない話

 左目にかゆ激痛が走っているのでひさびさに目薬を指した。

 

 最初の2プッシュは目の下に外れた。ようやく3回目で目のちょい上に来たのでまばたきしてなんとか成分を眼球に染みさせることができた。

 

 元から目薬を指すのが苦手だったが、更にひどくなったのには明確な理由がある。それは何年か前に酸性の「絶対に目に入れないでください」とラベルされている薬を、目薬だと間違えて眼球に指してしまったことだ。

 

 液体タイプで広範囲に塗ることができるニキビ用の薬だったか、形が似ているので間違えてしまった。どっちも木工用ボンドのような横に広いボトルだったからだ。

 ただ、似てると言っても目薬は透明な正方形気味の容器に黄色の半透明が入ってるもので、ニキビのは白くて硬い容器であってこれを間違えるのはそうないことだろう。

 

 この2つを似た形とみなす自分の視認性の雑さにビックリだが、すぐ気付いて水洗いをした自分をちょっと褒めてあげたいと思う。

 左目は眼球に直撃したが、右目は危機感からか外したのは不幸中の幸いだった。

 

 夜だったので声をあげれないし、助けを呼べないのも大変だった。もし家族がいる時だったら助けを求めたのかは疑問だ。

 

 なんで夜更かししてたかというとFGO天草四郎のイベントか強化クエストをやっていた覚えがある。

 

 FGOは去年の水着とキャストリアの8月から星5が一枚も出ていない。今回も散々でなけなしの無償石がここ数年で最小になっている。

 色々ひと段落したらはやくキャメロットを進めたい…