肋骨鎖骨のブログ

友達の名前が呼べないタイプです。

「誰も傷つけない表現」論争について思うこと②ー宇崎と千歌ちゃんは誰に「燃やされた」のか?「ツイフェミ」について今更考える

前回の記事はこちら

「誰も傷つけない表現」論争について思うこと①ー『ルックバック』への見解 - 肋骨鎖骨のブログ

前回の記事では、「『誰も傷つけない表現』があるかどうか」という問いは批判を無効化するために使われるので注意が必要という話をしました。

そして今回はプリキュアや戦隊・ライダーについて語るはずだったのですが、予定を変更してオタクが敵視しがちな「ツイフェミ」なる存在について考えてみます。

 

前回のおさらい!

「誰かを傷つけるかどうか」は、作品そのものの問題というよりは読者がどのような文脈で読むかに依存します。なので「誰も傷つけない作品」は存在しません。読者の読み方次第だからです。

しかし、「誰も傷つけない作品」がないからといってなんでもありとしてはなんの生産性もありません。極論を言ってレスバに勝った感を出すのは最近流行っていますが、それは何も考えずに一番楽な「批判」をしているだけです。ある程度は自分で考えて自分なりの意見を持ちましょう。

ジャンプ+によると『ルックバック』が修正に至ったのは「作中の描写が偏見や差別の助長につながること」を懸念したからです。そうです、「この作品や描写は誰かを傷つけるかどうか」は不毛ですが、「この作品や描写は偏見や差別の助長につながるか」は問えます。

 

宇崎と千歌ちゃんは「燃やされた」?

こう聞くと宇崎ちゃんの献血騒動な沼津の千歌ちゃんのスカート騒動を思い浮かべる人もいるでしょう。この2件で「ツイフェミ」なる個人・集団に嫌悪感を持つようになったオタクは多いでしょう。お前はどう考えているんだ、どっちの味方なんだと思っているでしょうから一言で答えると「そんなに間違ったことは言っていない」です。上から目線の言い回しになってしまったのはごめんなさい。

無論すべてのツイートやツイッターアカウントに賛同しているわけではありませんが、私はある程度の「配慮」は必要だと思っている派なので、俗に言う「ツイフェミ」に近い方かと思います。

よく「ツイフェミ」に「燃やされた」と言う人がいますが、「ツイフェミ」とは誰で、「燃やす/燃やされる」とはどういうことなのでしょうか。

 

「ツイフェミ」は実在するのか?

まずは「ツイフェミ」とは誰のことなのかを考えてみます。

ここで少し考えてほしいのは、あなたが「ツイフェミ」と想定している個人や集団は本当にいるのかということです。大抵の場合あなたが「ツイフェミ」を目撃したのはまとめサイトなどの切り抜きではないでしょうか。

そういったところは叩きたい・叩きやすいものだけを意図的に切り抜いていたり、まとめ方やタイトルで曲解しており、現実に即していません。pv やフォロワーを増やしたいがための煽動に引っかかっているだけです。

そもそもツイッターアカウントは一個人の一側面でしかありません。1人で複数のアカウントを持つ人も多いですよね。私は一つの垢でこういったオタク批判をしつつエロ絵をいいねし、日常ツイをするので中々フォロワーが増えませんし、減るばかりです。そういったちょっと矛盾しているくらいが人間なのですが、ツイッターランドでは思ってたのと違う側面を見せるとすぐフォローが外されます。

そんな一個人の一側面でしかないツイッターアカウントのうちの一ツイートの実在性はなかなか疑問です。そんな一ツイートの切り抜きを寄せ集めて作り上げられた「ツイフェミ」は、素材は現実のものを使っていますが実在はしておらず、叩くために/叩きやすいように作り上げられた存在にすぎません。そしてそれはサイトのpvやフォロワーを増やすための工夫で、まんまと釣られているわけです。いわば「切り取りの(悪意のある)切り取り」です。

実際に「フォロワーを増やすためにツイフェミ叩くか〜」「ツイフェミ叩けばフォロワー増えるぜ」と言っている垢を複数見たことがあります。ツイッターはフォロワーを増やすためや、いいねを貰うためにフォロワー受けの良さそうなことを言うようになると終わりです。それはただのポジション取りですから(とはいえ政治批判は伸びるのに自分のYouTubeの紹介ツイには誰もいいねを押さない大物垢を見ると悲しい気分にはなります)。

フォロワー稼ぎのための架空の「ツイフェミ叩き」にまんまと乗せられていないか、一度考えてみましょう。わかった上でやってるならオーケーです。ただし、場所は考えましょう。

もちろんこれも誰かやどこかの層の肩を持っているとかそういうことではないです。ただ自分はオタクとしてオタクに言いたいことがあるだけです。

 

「燃やされる」とはどういうことか

表現やキャラクターが「燃やされる」とはどういうことか。先程私は宇崎や千歌ちゃん問題に関して、ある程度の「配慮」が必要と言いましたが、この「配慮しろ」と「燃やされる」は同じことなのでしょうか。

「燃やされる」とはおそらくある表現が「クレーム」によって撤去や修正を余儀なくされることを指すと思われます。前回扱った『ルックバック』もこれにあたり、ゆえに激怒している人が多いということです。

前回私は作者と読者が双方向に影響し合うことは良いことだと述べました。さらに批判をすべて「クレーム」と一括りにする姿勢に苦言を呈しました。その上で作者が自由に創作できる環境を守ることが一番大事だと言いましたね。

『ルックバック』と今回の違うところは、作者がはっきりしないところです。コラボの主催者でしょうか?原作者でしょうか?コラボ元でしょうか?それとも描かれてあるキャラクターでしょうか?

よくわかりませんね。多分わかる人がいたら教えてくれるとありがたいですが、今回はぼやけていて作者の権威が薄いところが重要だと思うのです。

なので私の結論はこうです。次からうまくやってね。うまくやるとは、ちゃんと「配慮」してねということです。

私は悪くない人に迷惑をかけたくないので抗議はしませんが、する人がいてもいいと考えています。ただし、悪くない人に迷惑があまりかからないやり方で、意味のあることをしましょう。ですがこれは方法の話で別問題ですし、抗議することは否定しません。

 

「配慮」とは何か

ここまで読んでくれた読者なら気づいていると思いますが、私は文脈というものを非常に大事にしています。ゆえに一側面だけを切り取られることを毛嫌いしています。

しかし、アニメや漫画がコラボで公に出ることは、原作のキャラクター性や作品の雰囲気などの文脈はブッた斬られます。献血のポスターに描かれているのは「センパイを好意からからかう宇崎ちゃん」ではなく「ほおを赤らめている胸が大きいアニメキャラ」です。千歌ちゃんも「スカートが短く、貼り付いているように見えるアニメキャラ」となります。

オタクは感覚が麻痺していることに気づきましょう。冷静に考えてると胸がすごくデカイことが笑いのネタになってることはちょっとおかしいです。というか一般の感覚とはだいぶズレています。私は『ひぐらしのなく頃に」が好きですが、最近は〇〇ちゃん(一応ネタバレ防止)がどう死ぬのかをワクワクしながら毎週見ています。この楽しみ方は「ひぐらし」を見ていない人からするとかなり異常です。今これを聞いて衝撃を受けた方もいるのではないでしょうか。他にも漫画を読んでいると非オタクの親に「この子たちは裸にボディペインティングしてるの?」と言われたことがあります。

つまり、文脈から離れても大丈夫な描き方を採用しろというのが私の見解です。これはオタクを否定しているのではなく、新たなチャンスだと考えています。

 

「配慮」の好例

好例はFGOです。FGOはソシャゲですが、その登場キャラクターはかなり露出度の高い格好をしています。献血のポスターで紐パンのちびっ子や何故か下乳だけ丸出しな服を着ている子がそのまま採用されたら流石にビックリするでしょう。

FGOは5周年の時に都道府県ごとにキャラクターを割り当てて新規イラストを新聞の一面にしました。

Fate/Grand Order 5周年記念広告 under the same sky

この時はいつもは露出の多い子も服を着込みました。これでいつもより露出が減って何事だ!と怒っている人は見たことがありません。

もちろんFGOは超大型コンテンツですのでここまでやれとは言えませんが、文脈を離れて公に出ることはオタクにとってもメリットがあるということです。

 

結論

コラボ時の「配慮」とは、元の文脈から切り離されても元を知らない人にも受け入れられる描き方をしようということです。ここで極論を持ち出されると困りますが、批判されたものよりも良いものを考えることはできるでしょう。実際に変更するかはコスト面が大きそうですが、自分は「次回があったらもっと良いの作ってね」です。

「燃やす」とは変更や撤廃が起きるかどうかが問題になりますが、自分はそこにあまり価値を置いてません。前回も言いましたが勝ち負けを争ってるわけではないですし、コストなど違った変数が入り込んでくるからです。

ですが私は「配慮」されたものが好きであり、高く評価します。こういう文脈があるから〜って反論はその意味では微妙です。

結論を言います。表現が将来的に「配慮」された形になることは良いことである。しかし批判は悪くない人に迷惑が掛かりにくい方法を取るべきだ(=「燃やす」は方法の問題)、です。

 

おわりに

ちなみに今の千歌ちゃんはこんな感じだそうです。私は、前のときより好きです。

f:id:yangotonashi:20210812035459j:image
f:id:yangotonashi:20210812035505j:image

「誰も傷つけない表現」論争について思うこと①ー『ルックバック』への見解

※ある程度『ルックバック』の一連の騒動を見てきた人向けの記事です。事の顛末を知りたい人は他の人が書いてる客観性が高いものを探して読みましょう。

 

WEBマンガである藤本タツキルックバック』の表現が批判を受けて修正されたことで、ネットが炎上しています。そして話は拡がり、「誰も傷つけない表現」問題が今はホットです。「誰も傷つけない表現なんてないし、面白くない」みたいな言説が散見されます。

 

『ルックバック』に対する主な批判は統合失調症ステレオタイプを犯人にしており、偏見を助長しかねない」というものです。こちらの論点は斎藤環のnoteでも読んでおいて下さい。

事のあらましは誰かがきっと解説しているでしょうから、ここでは自分の見解を述べます。

 

今回はまず『ルックバック』について私の当時のファーストインプレッションを振り返りつつ、修正後の『ルックバック』とそもそも作品が修正されることへの見解を述べます。そして「誰も傷つけない表現」について少し考えてみます。

 

今回を①としたのは、次回に最近よくTLに流れてくる特撮やプリキュアの性別問題についての所感と、その論争で欠けている視点を提示したいと思っているからです。こちら②で「誰も傷つけない表現」についてしっかり扱おうと思っています。


1.『ルックバック』への個人的見解

1.1.当時の私の感想

まずは私(といってもこのブログの書き手とTwitter垢は完全に一致しているわけではないのですが)の当時のツイートを見てみましょう。

これは朝起きてから『ルックバック』の存在を知り、他の人の感想を調べるとかはせずにそのまま書いたものです。TLで話題になっているところから知ったので完全に他の人の感想を見ていないわけではないですが、ほとんどそれが自分の感想に影響を与えたということはないかと自負しております。

 

 

これらのツイートを整理すると以下のようになります。今回論点となっている犯人像についてまとめます。

  1. 通常であれば犯人の描き方の唐突さ(背景のなさ)を批判する
  2. しかし、「かの事件」の話と読んだ際にはその表現の正当性が認められる
  3. もっと言うと、この「唐突さ」こそが『ルックバック』が「かの事件」を表していることの証左である

といったところです。ツイートだけ見ると評価していないように見えますが、これは評価しているからこその斜めに構える厄介オタクの姿勢です。同作者の『チェンソーマン』は普段ジャンプ漫画を読まない自分でも大ハマりした作品で、今でも定期的に読み返しているほどです。

当時の感想を一言に集約したのがこれになります。「かの事件」がモチーフのひとつになっている可能性が高い以上、この姿勢になります。これはのちに批判される「パクりやがって」の表現が確信犯的であり、これによって『ルックバック』が「かの事件」をモチーフにしている十分性が確保されました。自分はこの一言でそう読むしかなくなりました。

 

また一夜経った後に絶賛していたリベラルめの批評家が謝罪に至っていたことを顧みると、表現を留保付きで褒めたことは先見の明があるとも言えるかもしれません。

ちなみに「かの事件」とは2年前の7月18日に起きたあの事件です。自分はまだ受け入れることができていないので、こう呼んでいます。そしてのちの論点となりますが、それを踏まえると「パクりやがって」っては統合失調症ステレオタイプとして描かれたのではないと判断するのが妥当です。大きな声では言いたくないことですが。そしてあくまで作者目線の話です。

 

まとめますと、犯人の描き方には唐突感がありますが、その唐突な描写に意味が認められます。私はこれで良いと考えていましたし、今でもそれは基本的に変わりません。

 

1.2.批判への所感

絶賛から一夜が明け、『ルックバック』への批判が見られるようになります。前述したように「犯人の統合失調症ステレオタイプをなぞったような描き方」が批判されました。実際に統合失調症の人が事件を起こしたことはないのにとは精神科医である斎藤環の弁です。

さらに統合失調症当事者からの反発の声も上がりました。

結論から言うと、これらは無視できない意見だと考えています。自分は当事者の声というものに高い価値を置いているからです。特にピンポイントでその属性を持つ人へのステレオタイプが見られる場合は重要度は増し、今回はそれに該当すると判断しています。

ですが無視できないからといって表現を変更するべきとは思ってはいません。今回の場合は必然性が認められるので修正の必要はないと考えていました。「誰かを傷つける」の文脈にあえて載せるなら、物語上の必然性が「誰かを傷つける」度に勝っていると私は判断したからです。

ただしその「必然性」は、作者は絶対そう読んで欲しいと明言したくない読みをした場合に限ります。ここが今回の厄介なところなのでしょうね。重いですし粋じゃないですからね。

 

1.3.修正後の作品についての感想

ですので修正されたことには驚きました。批判への対応策は3つほどありました。

1.反応しない

2.その意図はないことなどを文章で表明する

3.表現を修正する

あっても文章をリリースしてどこまで突っ込んだこというのかって気でいたのでビックリしました。

ちなみに修正版を読んだ直後の感想が以下です。

犯人がクリエイター蔑視マンに変化したことで外圧によって京本的な心が損なわれた話となり、創作についての作品の側面が強くなりました。オタクは登場人物をみんな同一人物として捉える読み方が好きですが、少なくとも犯人はその中から疎外されました。その是非は人によるかと思いますが、自分は「悪くない」か「これはこれであり」としか言えません。

修正後の問題点としては唐突さはそのままであることが挙げられます。もちろん吹き出しと新聞の内容を変えただけで物語の大筋は変わっていないからですが、確信犯的な「パクりやがって」がなくなったことで、唐突さに正当性を与える読み方が難しくなりました。ゆえに私が個人的に好きではないご都合主義の唐突さになってしまったことは否めません。

ですがこれも修正があったという文脈で見るとまた違ってきます。ただ、修正後の作品単体で読むとやや評価が下がるというのが個人的な意見です。

ただし私のような「かの事件」に関わるもの全てにセンシティブになっている人間にとってはこれはありがたい配慮ともいえます。「唐突さ」のみで「十分」なのですから。タツキ自身もそう読めるようにやりすぎたと思ったことが修正の結構大きな原因だったのではないかと、私は思います。私が知る範囲での藤本タツキは、そこらへんを自覚的にはぐらかす人です。なので修正前の表現はタツキらしくありません。

 

つまり、統合失調症への偏見の助長だけを理由に修正したのではなく、「かの事件」へのあまりに直接的な表現にタツキ本人が悔いたことも修正の理由のひとつだったのではないでしょうか。

 

1.4.作品が修正されることへの所感

コミックスにおいて何かしら修正が入ることはよくあることです。ですので今回の修正に至った批判が「表現狩り」であるとは全く思いませんし、修正されたことが「負けた」「屈した」とはなりません。さらに批判をした人が「表現を変更させて気持ち良くなりたい」と考えているわけでは断じてないでしょう。いるとしたらそれは病的ですが、そう思ってしまうのもかなり病的です。

私はネット時代のいいところは作者と読者の双方向性だと考えているので、読者のリアクションを受けて作品が変わることは良いことだと捉えています。

ただし修正前がアーカイブとして残らないのがネット漫画の悲しいところですね。そこの問題が今回明るみになりましたが、それはまた別問題です。

 

大事なことは作者が読者の批判を受けたうえで自由に創作できることだと思うのです。批判されて仕方ないから変える、ではなく読者とより良いものを作り上げる感覚です。

 

そのために大事なことは、作者を守ることです。編集部やその他タツキの周りの大人はその責務を果たせたのか。その助けになったのは一番の功労者は間違いなく小学三年生のながやまこはるちゃんです。彼女のお陰でタツキは守られた面は絶対あるでしょう。周りの大人はもっと頑張れ。

 

今回は無料で不特定多数に読まれ、また修正前の作品がモノとして残らないWEB漫画だったことが騒動を大きくしました。

ですがいろんな意見がつくのは自然現象ですし、それによって表現が変わることも同じく自然現象です。このダイナミズムを楽しむくらいがこれからの時代ちょうどよいのではないでしょうか。そこに「勝ち」も「負け」もありはしません。

 

『ルックバック』については、修正前の表現は7月19日0時に配信されたという文脈で一番その正当性が認められるので、今はもう心の中に留めておくのが一番の鑑賞方法ではないでしょうか。優れたものは心にいつまでも刻み込まれますから。

私は作者の決定に従いますし、その決定の中で一番楽しめる読み方をします。

 

2.「誰も傷つけない表現」について

「誰も傷つけない表現」はありません。当たり前です。

ですが「誰も傷つけない表現」があるかないかは観測の限りほとんど問題になってないと思うのです。大抵の場合「誰も傷つけない表現」なんてないんだからという「正論」でまっとうなものも含む批判を無効化する場合でしか見ません。これは結構ずるいです。

ですから「誰も傷つけない表現」があるかないかを論点としているひとを見かけたら注意が必要です。

 

さらに言ってしまえば誰かを「傷つける」かどうかは作品自体の問題ではないでしょう。読み手が「傷つけられる」かどうかは読者がどのような文脈で読むかに依存します。もちろん全く切り離せるものではないですが、「傷つける」かどうかは作品によらない以上、問いが成立しておらず、仮に成立していても議論が不毛になることは確実です。前述のとおり、批判を無効化したいだけのアイテムでまともな議論ができる気がしません。同じように一考の余地のある批判を「クレーム」と片付ける所作もお行儀が悪いです。

 

作品そのものよりも環境が大事だと言う話は次回詳しくします。

 

そもそも『ルックバック』において「誰かを傷つける表現」の是非が問題になったことは一度もありません。ジャンプ+が言っている通り「作中の描写が偏見や差別の助長につながること」が問題なのです。

「この表現・描写が誰かを傷つけるか」は問いが破綻していますが、「この表現・描写が特定の属性に対し偏見や差別の助長につながるか」は成立します。

 

ここを混同している人が多いような思います。ですので一見それっぽく見える「誰も傷つけない表現は誰も救えない」は色々おかしいところがあります。

『ルックバック』の文脈でならそもそも「誰も傷つけない表現」は問題になってないですし、「誰も傷つけない表現」を「偏見や差別を助長しない表現」と言い換えたら意味不明です。字面通り読んでも「んなことなくね」以上の感想が出ません。ただちょっと厄介なのは「誰も傷つけない表現」は存在しないのでこの問いに反駁することができないところです。もう悪魔の証明です。

ですので「誰も傷つけない」≒偏見を助長しないと捉えた時に、偏見を助長せずに誰かを救う作品として私はプリキュアを挙げます。ここは次回詳しくやりたいのでここら辺で。

 

3.まとめ

•修正前『ルックバック』の表現は某事件の文脈で読んだ時に正当性が認められるが、読者がそのつもりもないのに某事件を連想してしまう表現は再考の余地がある。特に作者はそう読まれることを嫌いそう。

統合失調症ステレオタイプ批判には耳を傾けるべき。当事者の声はなおさら。

•修正は統合失調症ステレオタイプ批判によるものだけでなく、あまりにも直接的に某事件モチーフにしたことへの作者の後悔があったからではないか。

•修正されること自体は自然現象で、そこに「勝った負けた」を持ち込むのは病的。

•作者と読者の双方向性を維持しつつ、作者が自由に創作できる環境を守ることが第一。

「『誰も傷つけない表現』があるかどうか」は問いが破綻しているし、成立していても愚問である。批判を封じ込めたいがために使われるので注意。

•偏見を助長するかどうかを勝手に「誰かを傷つけるかどうか」にすり替えるな

•私は作者の意向に従って楽しむ

 

こんなところですかね。次回もよろしくお願いします。近いうちに書きます。

 

【日記】良い日とはどんな日だろう

 だいたいの日を無駄にしている実感がある。大学に入ってから(特にコロナ後)は特にそうだ。

 そんな中で今日は良い日だったなぁ〜って満足しながら眠りにつく日がたまにある。

 そんな日をリストにしてみた。

 

  1. 午前中を有意義に使えた日
  2. 新しい関係を構築した日
  3. やるべき課題が完了した日
  4. 業務を複数進められた日

 

1.午前中を有意義に使えた日

 大学生の午前は大体寝てるだけである。自分の場合はラヴィット→ノンストップ→ヒルナンデスの惰性の黄金ローテをかましていると気が付いたら午後になってることがよくある。

 なので朝早く起きてタスクを一つでもこなせると素晴らしい一日をきれる。

 

2.新しい関係を構築した日

 人間関係で新たな出会いがあった日は良い日である。その場限りでなく、自分の人生に登場するCV付きのキャラクターが追加されるのは大変喜ばしいことである。

 また既存の知り合いに対して関係のステージが上がった日も素晴らしい。モブBに名前がついたり、メインキャスト昇格したりするのは人生の小さくない分岐点だからだ。

 

3.やるべき課題が完了した日

 だいたいのやるべき課題は一日あれば終わるものだ。それを終わらせられないのは単に締め切りに余裕をかましているだけである。

 なので課題を終わらせられた日はやるべきことを最高効率でこなした日である。コストパフォーマンスがよく、達成感もある。

 

4.業務を複数進められた日

 私は自分に甘いのでシングルタスク人間を自称している。なにか業務をする際にはその前後でパワーの充電(という名の怠惰)が必要になる。

 やる気起きない日は爪を切るだけで一日が終わることがある。爪切りとは今まで放置していたものに対処するわけだから、かなりの決意が必要である。ゆえに爪切りをしようと心に決めてから動くまでに1時間は充電時間がほしい。さらにその決意の代償である心労から回復するのに1時間の休憩は欲しい。

 そんな言い訳ばかりしているので一日で出来ることのキャパが尋常じゃなく少ない。

 ゆえに一日に二つ以上タスクをこなせた日は良い日である。「本をしっかり読むのに加えて何かやるべき課題もやる」程度で万々歳である。私は活字が苦手なのでまともな本相手だと5Pで寝落ちしてしまう。なのでちゃんと本が読めてかつ他のこともできた日はなんと素晴らしいことか。

 

そんなわけで「良い日」を紹介しました。ちなみに今日は良い一日でした。もうちょっと本は読みたかったけど。

【6/30第2巻発売記念】「男らしさ」の行方とは 映画批評ゼミの大学4年生が語る今最注目作『おかえりアリス』の見どころ+押見修造論

f:id:yangotonashi:20210627115333j:image

本記事は『おかえりアリス』第3話までのネタバレを含みます。未見の方は以下の公式サイトにて第3話まで読むことを勧めます(無料)。

https://pocket.shonenmagazine.com/episode/13933686331620211547

 

 いま一番続きが気になる漫画を挙げるとしたら、自分は押見修造『おかえりアリス』を選びます。押見修造先生といえば『惡の華』『ぼくは麻里のなか』など、いびつでドロドロ(意味深)してる青春を描かせたら天下一品です。毒親を描いた『血の轍』も話題沸騰連載中です。

 マガジンを読んでる人はご存知かと思いますが、実は今『血の轍』以外にも連載している作品があります。それが『おかえりアリス』です。

 その第2巻が6/30に発売されます。その発売を記念して、自他ともに認める押見好きの私が魅力を解説してゆきます。第3話までのネタバレと、第1巻に収録されている話をネタバレにならないくらいで触れています。

 上にリンクを貼っているので、これを読む前か、読んで面白いと思ったら是非読んでくださいね。無料でもそれなりに読めます。

 ついでに過去作を踏まえて『おかえりアリス』に至るまでの流れを押見修造論」としてまとめてみました。極力ネタバレに注意して書きましたが、一応ご注意お願いします。単行本のあとがきについての言及が多いです。

 

 それでは、はじめます。

 

目次

I.『おかえりアリス』紹介

  1. あらすじ
  2. 人物紹介
  3. 作品の見どころ
  4. 作品解説

II.押見修造

  1. 『ぼくは麻里のなか』での大きな転換
  2. 『スイートプールサイド』のあとがき
  3. 『志乃ちゃん』から『血の轍』へ
  4. 『ワルツ』が出した答え

III.まとめ

  1. 「男らしさ」の彼岸
  2. 『おかえりアリス』を買え!!!

 

I.『おかえりアリス』紹介

あらすじ

「洋ちゃん、オナニーってしたことある?」ある日の部活帰り、慧ちゃんが言った。内気な中学生・洋平と、慧と結衣は幼稚園から一緒の幼馴染み。結衣を"女の子"として意識しだした洋平は、ある日、目を疑う光景に直面する。

https://pocket.shonenmagazine.com/episode/13933686331620211547 より引用

 

人物紹介

内気なメガネ 亀川洋平

 本作主人公。中学生のころから三谷が好き。中一のとき、偶然慧と三谷がキスしているところを目撃してしまい、以降トラウマに。三谷とは話せず、オナニーするだけの3年間だった。三谷と同じ高校に入り、関係をやり直して付き合いたいと思っている。

 入学初日、謎の金髪の美女に話しかけられる。

 

「男を降りた」 室田慧

 中一のときは女子ウケのよさそうなさわやかなイケメン。洋平にオナニーの仕方を教える。三谷に告白され、気持ちを確かめるためにキスをするが、それを洋平に目撃されてしまう。以降は洋平と気まずい仲となり、そのまま転校してしまう。

 高校からは地元に戻り、洋平と三谷と同じクラスとなる。昔と姿が大きく変わっており、長い金髪の髪に女子用制服を着ている。

 本人曰く、「一応男ですが 男はもう降りました」とのこと。女性になりたいわけではなく、「男を辞めたい」とのこと。そんな慧の帰還が物語を大きく動かす。

 

黒髪の清純派? 三谷結衣

 押見作品あるある(?)の黒髪ポニテ陰キャウケがよさそうな女の子。洋平の想い人。中学のときに慧に告白した

 

作品の見どころ

1.視線の描写

 描写力に定評のある押見先生ですが、『おかえりアリス』でもそれが際立っています。最大の特長は、何も台詞のない顔面の視線描写でしょう。台詞よりも眼がすべてを語っています。

 わかりやすいのは第1話で洋平が慧と三谷の密会を目撃するシーン。洋平に見られたのを気付いた慧のアンサーが表情だけだったのが印象的です。あと何と言っても第1巻収録の第5話の三谷ですかね。

 その他にも横目でチラチラするシーン。一瞬の間をアップの顔で埋める技法。同じ角度から目線だけ変わる構成。情景描写は最低限しかなく、本当に眼だけが訴えてきます。

 視線の使い方がもう夏目漱石ばりです。『惡の華』の最後の方は全然台詞がなかった記憶がありますが、その頃よりも表現力が凄まじくなっています。連載中の『血の轍』ほど劇的なシーンはありませんが、シレッとめちゃくちゃ上手いのが本作の魅力です。

 

2.キスの効用

 押見作品においてキスは重要な役割を果たします。上記の視線の話にしても、キスは眼と眼が限りなく近くなる行為ですから、そのときの眼の描かれ方にも注目です。『惡の華』のあのシーンとか、別記事で話したいくらいです。

 本作でも当然キスが果たす役割は大きいです。物語を動かし、常識を覆すようなキスです。あまり嬉しくなるような素敵なキスが見当たらないのは気のせいでしょうか。笑

 

3.三谷の嫉妬

 第2巻のストーリーの見どころはおそらく三谷の嫉妬でしょう。第1巻の最後に収録されている第5話は死ぬほど好きなんですよね。特にクソ不味そうなコーラが好きです。そんなコーラで楽しい会合ができるわけないだろ!この回で三谷の心境に変化があります。

 というわけで一見清純で「女の子らしい」三谷がどう心を剥き出してゆくのかに注目です。剥き出すのを前提に話してしまいましたが、過去作のヒロインを見るにそれは間違いないでしょう。笑

 傲慢で嫉妬深くしたたかな人間らしいところを曝け出してほしいですね!

 

作品解説

「男を降りる」とは

 作品のテーマはズバリ<「男を降りる」とは一体どういうことなのか>でしょう。「男を降りる」は作中で慧が表現したもので、『「男ならこうあるべき」と要請されるものをすべて手放すこと』と言い換えることができそうです。

 大事なことは「男を降りる」は「女になりたい」ではないということです。ここがこの作品の最重要ポイントと言っても過言ではありません。これは作中で慧が再三繰り返し言っています。「男から降りたけど、女になりたいわけではない。なら自分はどこに向かえばいい?」これはおそらく押見先生もまだ見つけることができていない問題です。一読者として、いっしょに寄り添いながら彼らの行く末を見守りましょう。

 「男を降りる」問題を考えるときに過去の押見作品がきっと役に立つはずです。次章では、過去の押見作品からどうやって『おかえりアリス』に至ったのかを推察してみます。

 

II.押見修造

 

『ぼくは麻里のなか』での大きな転換

 押見先生は自分の中にある問題を探るために漫画を描いているイメージがあります。なにかのインタビューで本人もそう言っていた記憶があります。ある程度の畳み方は考えているのかもしれませんが、物語を手探りで紡いでる漫画家だと勝手に思っていますがどうなのでしょうか。

 そんな押見作品のなかで一番大きな転換があった作品はおそらく『ぼくは麻里のなか』(2012〜2016)ではないでしょうか。

 あらすじは以下の通りです。

友達が一人もいない大学生の≪ぼく≫の唯一の楽しみは、コンビニで見かけた名も知らぬ女子高生を定期的に尾行すること。
いつものようにその娘を尾行していたら突然記憶が飛び、≪ぼく≫はその娘のベッドで寝ていて、≪ぼく≫はその娘になっていた。
その娘は≪麻理≫という名だった――。『惡の華』『漂流ネットカフェ』で話題の押見修造最新作。「漫画アクション」にて連載中。

第1巻あらすじより引用

 入れ替わりものなのでネタバレを踏まないように詳しくは解説しませんが、大事なことは、遠くから見て理想化しがちな女の子も人間であるってことです。人間らしい汚さ、愚かさってのがあります。それは身体もそうだし、心もそうです。それに気付くことの大切さをこの作品や他の作品で押見先生は教えてくれます。

 押見作品はあとがきが楽しみで単行本で買っているところもあります。独白が楽しみなんですよね。そんな中で『ぼくは麻里のなか』のあとがきは特異なところがあります。それは、自画像が毎回変わることです。わけのわからない生物から、姿が溶解するキャラ、さらには美少女まで多種多様です。また第1巻のころはあとがきで「心の中から女の子になりたい」と豪語していた押見先生が最終的に出した結論にも注目です。男女入れ替わりの物語を紡いで、彼はどう変わったのか。物語の外部にも注目すると新たな楽しみも生まれます。

 

『スイートプールサイド』のあとがき

 あとがきで言うと、『スイートプールサイド』(2016)のあとがきは特筆するべきものがあります。『スイートプールサイド』自体は結構前の作品ですが、単行本化は2016年であとがきもその頃に書かれたと推測されます。ちょうど『ぼくは麻里のなか』が終わった頃ですかね。

 特筆すべきなのは、自画像が美少女化していることです。しかも「女の子になりたい願望」を投影してると自分で注釈をつけて。

 アレ?まだ女の子になりたがってるの!?って感じですが、昔を振り返った最後っ屁(残光)のようなものだと捉えました。

 

『志乃ちゃん』から『血の轍』へ

 突然ながら、私は最近どもりが酷くなることがあります。元から喋りは得意ではありませんでしたが、大学4年生になって面接を繰り返すなかで、自分の喋りたいことが喋れなくなることが増えました。「えーっと」「まぁ」「なんというか」のような繋ぎの言葉が封印されるので最初の言葉が出ません。また丸で終わるのが怖くなってダラダラ長尺になったり、持ってきた話がまるでトラウマを語るように声が出なくなって、その周辺の思いついた直接関係ない話をしてしまうこともあります。

 押見先生自身もどもりに悩んだ経験があるということで、吃音を扱っている作品がいくつかあります。

 志乃ちゃんは自分の名前が言えない(2011〜2012,単行本は2013)と、連載中の『血の轍』(2017〜現在)です。一番の違いは、主人公の性別でしょう。志乃ちゃんは自分を美少女化している節がありますが、『血の轍』の静一は男の子です。

 自分に向き合い続けた作家が、ついに自分の性別で、自分の問題であるどもりと毒ママに挑んだのが『血の轍』だと思っています。

 

『ワルツ』が出した答え

 押見修造作品のなかで隠れ名作をひとつ挙げらと言われたら、間違いなく短編『ワルツ』を挙げます。この作品ではじめて女性誌に初めて押見作品が掲載されました。あらすじは以下。

惡の華』『ハピネス』『血の轍』の大人気作家・押見修造女性誌で初めて描いた話題の読切り41P!
「かわいい」の魔法を、君にかけてあげる。
凡庸な毎日を淡々と過ごす美少女・尾長はある夜、同じ高校でいじめられている男子・柏原が、女性下着を身に着けている姿を目撃する。その時から、二人だけの“秘密”は始まった。地味で卑屈な柏原の「かわいくなりたい」という願望を、自分の服やメイクによって叶えていく尾長。それは、お互いしか知らない密やかな遊びのはずだったが──。

あらすじより引用

 どこが名作かというと、この『おかえりアリス』の「男を降りる」問題に対して、ひとつの答えを明示しているからです。より正確に言うと、「これではいけない」のアンサーを出しました。

 かつて人間は「否定神学」といって、「これは神ではない」を繰り返すことによって漸近的に神に迫ろうとしました。

 これと同じで正しく「男を降りる」ことは果てしない道かもしれませんが、その最初の1ピースを『ワルツ』は示しています。 

 

III.まとめ

「男らしさ」の彼岸

 男でいることの辛さはもしかしたら全部被害妄想なのかもしれません。実は「男ならこうあれ!」と周りに直接言われたことはないです。

 「男なら強くあれ」と追いかけてくるのはいつも自分です。まあその「自分」というのは周りの影響から形作られるものですが。

 「男らしさ」を手放すかは自分次第ですが、だからと言って「女の子になりたい」と思ってしまうのは愚かです。それは「女は楽でいいよな〜。いざとなれば身体を売ればいいんだから」というゴリゴリの女性嫌悪に繋がりかねません。女性のほうが人生が楽という一方的な妄想の押し付けだからです。

 ならば男たちはどこに向かえばいいのか。『おかえりアリス』を読んで一緒に考えてゆきましょう。

 

『おかえりアリス』を買え!!!

 御託を並べましたが、普通に漫画として最高峰に面白いです。鬼才押見修造が行き着いた到達点が此処にあります。

 当初の予定では4/9発売でしたが、3ヶ月近く長引きました。発売を待ちに待っています。

 『おかえりアリス』第2巻、6/30発売!!おもしろいからつべこべいわずに買え!!!第1巻も買え!!!!!(ダイマ

 

【4DX初体験】映画批評ゼミの大学4年生が選ぶ『閃光のハサウェイ』見どころ三選

f:id:yangotonashi:20210627232447j:image

フィルムはGセルフでした。

 

 閃光のハサウェイ見に行ってきました。しかも4DXで。4DX初体験です。

 逆シャアを前に見たときにハサウェイのクソガキ感にイライラしっぱなしでした。けれど今回成長したハサウェイの姿を見れるということで見てやりに来ました。

 なかなか最近忙しくて見に行くのが3週間目になってしまいました。ほんとは逆シャアのフィルムがもらえるときに行きたかったけれど仕方ない。

 友人に誘われてはじめての4DXなのでいつも頼まないちょっと高いオシャレなソーダを頼みました。

 映画は期待に違わず面白かったです。4DX体験も素晴らしいものでした。以下ではあらすじを紹介した後、見どころを紹介します。

あらすじ

第二次ネオ・ジオン戦争(シャアの反乱)から12年。
 U.C.0105——。地球連邦政府の腐敗は地球の汚染を加速させ、強制的に民間人を宇宙へと連行する非人道的な政策「人狩り」も行っていた。
 そんな連邦政府高官を暗殺するという苛烈な行為で抵抗を開始したのが、反地球連邦政府運動「マフティー」だ。リーダーの名は「マフティー・ナビーユ・エリン」。その正体は、一年戦争も戦った連邦軍大佐ブライト・ノアの息子「ハサウェイ」であった。
 アムロ・レイシャア・アズナブルの理念と理想、意志を宿した戦士として道を切り拓こうとするハサウェイだが、連邦軍大佐ケネス・スレッグと謎の美少女ギギ・アンダルシアとの出会いがその運命を大きく変えていく。

http://gundam-hathaway.net/story.html より引用

見どころ三選

1.4DXの迫力

 4DXを初体験してきました。戦闘シーンはジェットコースターばりにぐわんぐわんしました。遊園地かと思う映像体験でした。こういうのも良いですね。

 4DXの仕組みはというと

①座席の揺れ

②座席の後ろからの噴射(冷/温)

③霧の噴射

④スクリーン横からの発光

あたりです。

 特に②の後頭部からの噴射は銃撃戦のときにヒヤッとしました。ほんとに自分が撃たれたんじゃないかと思うほどです。いろんなしぶきが噴き出るときにミストが掛かるのも面白かったです。

 戦闘シーンでは酔うくらいフルスロットルです。ですので飲み物やポップコーンは会話シーンで補給しておきましょう。

 

2.ギギの魅力

 ヒロインのギギさんが魅力的です。ハサウェイを導く、ミステリアスな女性です。パッと見しっかりした大人の女性ですが、普通に未成年です。

 なんといっても最大の魅力は、年相応の情緒の不安定さです。ハサウェイに言葉を省みるよう注意されてしどろもどろのごめんなさいをするし、避難するときもずっと顔を伏せてあわあわしています。余裕があるように見えて余裕が全然ありません。

 彼女の生い立ちのこともあり、大人と少女、清廉と醜穢、高潔と淫奔、2つの側面を兼ね備えています。より正確に言うと、どちらも彼女であり、どちらも掴みどころがありません。これぞガンダムの女、富野監督が好きそうな女です。監督とは女の趣味が合いそう。

 今回は上田麗奈さんの好演が光りますが、歴代では林原めぐみさんと川上とも子さんが演じられていて、まさにそのイメージです。

 

3.市街戦

 やはりガンダム、戦闘が最大の見せ場です。3部作のはじめということでクライマックスの劇的な戦闘ではありませんが、それでも十二分に楽しめます。

 特におすすめなのが中盤の市街戦です。誰の視点に立っているのかに注目です。逃げる市民側の目線、パイロットの目線。なかなかガンダムの戦闘では見ることの少ない視点から描かれているので、4DX映えもして楽しいです。

 

まとめ

  • 4DXの臨場感
  • 二面性を兼ね備えるギギの魅力
  • 様々な視点から織りなす戦闘

に注目です!4DX映えする映画ですので初めての4DX体験にどうぞ!!!

(微ネタバレ有り)映画批評ゼミの大学4年生が選ぶ『映画大好きポンポさん』見どころ三選

 

f:id:yangotonashi:20210626190155j:image

 『映画大好きポンポさん』を見てきた。完全にノーマークで原作も知らなかったが、映画を見てきた知人の評判が揃いも揃って良いので見に行くしかなかった。

 公開から1ヶ月ほど経ち、なかなか上映している劇場が少ない。なんとか昼間にやっているところを見つけ、急いで行ってきた。

 結論、おもしろかった。今年は劇場で映画を見る機会があまりなかったが、今年一の面白さだった。魅力的なキャラ、テンポのよいストーリー、映画を作るストーリーの映画ならではの重箱構造を巧みに利用していて、楽しく見ることができた。

 ここでは『映画大好きポンポさん』の見どころ三つを紹介しようと思う。

 

あらすじ

劇場アニメ『映画大好きポンポさん』公開直前PV - YouTube

敏腕映画プロデューサー・ポンポさんのもとで製作アシスタントをしているジーン。映画に心を奪われた彼は、観た映画をすべて記憶している映画通だ。映画を撮ることにも憧れていたが、自分には無理だと卑屈になる毎日。だが、ポンポさんに15秒CMの制作を任され、映画づくりに没頭する楽しさを知るのだった。 ある日、ジーンはポンポさんから次に制作する映画『MEISTER』の脚本を渡される。伝説の俳優の復帰作にして、頭がしびれるほど興奮する内容。大ヒットを確信するが……なんと、監督に指名されたのはCMが評価されたジーンだった! ポンポさんの目利きにかなった新人女優をヒロインに迎え、波瀾万丈の撮影が始まろうとしていた。

https://pompo-the-cinephile.comより引用

 

個人的見どころ三選

 

1.ポンポさんの「凄み」

 映画制作の話だと聞いていたが、まずビックリしたのは普通にハリウッド(作中ではニャリウッドと呼ばれる)映画の話だった。当然日本人ぽい名前の登場人物は出てこないし、作中でよく出てくるノートも全部映画だ。

 ポンポさんは愛称であるのだが、フルネームは「ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネットJoelle Davidovich Pomponette)」であり、その略称だ。

 このポンポさん、映画冒頭からすでに当然の如く映画プロデューサーであり、みんなポンポさんのことを慕っている。

 冷静に考えてこんなトンチキなかっこうをした幼女が相当な地位にあるのは違和感しかない。地位の理由は、名映画プロデューサーを祖父に持ちその遺産を全て受け継いだという設定だ。けれどもその設定以上に、作中のポンポさんの圧倒的なカリスマ性や敏腕ぶり、そして彼女を演じる小原好美さんの好演も相まって、「そりゃあ、みんなこの人に付いていくわ…」と納得するしかなくなる。

 圧倒的にフィクショナルなキャラクターであるポンポさんが物語の進行を支えている。加えて登場人物もみんな良い人で余計な障壁がない。

 思想家のD.グレーバーが現実とフィクションの違いは書類手続きの多さと言っていたが、まさにアウトサイダーなポンポさんが全書類手続きを引き受けることによって、物語がテンポよくストレスなく進んでいるのだ。ゆえにポンポさんがちゃんと凄くないとこのアニメの土台が成立しない

 それを成立させている超人(もはや人ではない)ポンポさんの「凄み」に注目だ。

 

2.「三つ」の映画の交わり

 劇中で映画を作る話なので、当然劇中映画と映画のストーリーをクロスオーバーして見てしまう。

 『映画大好きポンポさん』は一言でいうと社会不適合者の映画狂のジーンが、ポンポさんに才能と性格(?)を認められて、監督として映画を作る話だ。

 その映画は『MEISTER』。落ちぶれた天才音楽家が、田舎である少女に出会い、田舎での生活を経て成長し、再起する話だ。

 この主人公2人の境遇は重なるところが多い。いわば世間を爪弾きにされた者同士のシンクロだ。

 あくまで示唆的だった2人の心情が、どんどんひとつに重なっていく。その近づいていく過程にアドレナリンが湧き出る。そんな2人を物語がひとつになるシーンは圧巻だ。そして物語は新たな局面を迎える。

 いままで劇中映画『MEISTER』とストーリーの関連を指摘してきた。ならば見出しの3つ目の映画とはなんのことであろうか。

 答えはこの映画自体、つまり『映画大好きポンポさん』という映画のハードの部分のことだ。ストーリーの内容だけでなく、ハードの部分をメタ視点で見てほしい。

 劇中でポンポさんは自分つくる映画の3つの流儀を唱えている。詳細は映画館で確認してほしいが、その流儀に作中でジーンはどう応えたのか。また『映画大好きポンポさん』自体はどうなのか。そこに着目して見てほしい。

 

3.アニメならではのアクション

 映画監督の最大の仕事とはなんであろうか。答えは編集である。カットの繋ぎ合わせ、せっかく撮ったシーンを切ること。パソコンの前でカタカタカタカタ、黙々と進めるこの作業である。

 正直言ってこの作業は地味だ。パソコンの前での作業は映像映えしない。それこそ地味な事務作業として大幅カットされる仕事だ。

 しかしこの映画はアニメーション。しかも映画監督にフィーチャーした映画なだけあって、編集作業は最大の山場である。

 ならばこうするしかない。地味な編集シーンを派手なアクションシーンに変えてしまえばよいのだ。

 というわけでぜひ劇場で編集という名のアクションを体感してほしい。これこそアニメならではの表現技法である。

 

まとめ

  • フィクションに説得力を持たせるポンポさんの凄み
  • 作中映画とストーリーとこの映画自体の関連
  • 地味な編集作業をアニメでどう「魅せる」か

 以上の3つに注目すると1.5倍楽しく『映画大好きポンポさん』を見られるかも。

 もう上映館数が少ないので急いで見に行きましょう!!!

(ネタバレあり)ローラがプリキュアになったことについて+あとまわしの魔女との関係

f:id:yangotonashi:20210625231729j:image

ゆらめくオーシャン!キュアラメール!

 

 トロプリは歴代でも一番好きなシリーズかもしれない。明るいし、キャラ立ってるし、なにより「今いちばん大事なことをやる!!」ってコンセプトがいいですよね。敵幹部もみんな魅力的です。

 なかでも一番好きなキャラクターが人魚のローラ。人魚の王女様になるために人間界にやってきた人魚の女の子。性格は「ちゃっかり者の自信家で、思っていることをなんでも正直に言ってしまうタイプ」(公式サイトより)。

 自分の「好き」に真っ直ぐなまなつ(キュアサマー)と自分に絶対的な自信を持つ、ちょっと偉そうなローラが良いコンビです。優しくていつも周りに合わせてしまってNOが言えないさんご(キュアコーラル)は、そんな2人に感化されてちゃんとじぶんの「好き」を言えるようになります。キュアコーラルの技が「ばってんシールド」で✖️をつくってシールドにするのが彼女の成長を表しています。

 

これまでのあらすじ

 

 人魚はプリキュアになれないので自分の代わりに戦ってくれるプリキュアを探していたローラ。4人のプリキュアを見つけ、まなつらと作ったトロピカる部の部室に入り浸ります。普段はマーメイドアクアポットのなかに入ってますが、抜け出して放送室で歌をうたうなど陰ながら学園生活を楽しみます。

 そんなローラはひょんなことからみのり(キュアパパイア)と入れ替わり、人間の身体を満喫します。そして自由にみんなと同じように歩き回れる人間の身体に憧れます。さらにみんなとお揃いのマニキュアを塗りますが、人間界には足に塗るペディキュアなるものがあることを知り、塗ってみたくなります。正直「入れ替わり回」というネタ回でローラ心情を変化させて物語を大きく動かしたのは、見事としか言いようがありません。

 

ローラがプリキュアに!!!

 

  • あとまわしの魔女と対峙

 ローラは敵の罠にはまり、あとまわしの魔女たちのところに連れて行かれます。監禁を抜け出し、あとまわしの魔女と対峙するローラ。

ローラが人間になりたいことを見抜き、人間になる契約を持ちかけるあとまわしの魔女。しかしこの提案をローラは突っぱねます。「あなたの力は借りない!わたしの願いはわたしが叶える!」

 

  • 絶対に許さない!

 あとまわしの魔女のもとを去り、グランオーシャンの王女さまからパワーアップアイテムを渡されたローラ。戻るとプリキュアたちが敵幹部2人の襲来+2体のゼンゼンヤラネーダに大苦戦しています。水中でやられるキュアサマー。水中で変身解除されて大丈夫なんでしょうか。

 プリキュアみんな大苦戦。まなつは特に重傷です。大好きなみんなをこんな目にあわせたことにローラは大激怒。「絶対に許さない!」と怒りを爆発。そのとき王女さまから渡されたアイテムが光り、ローラは変身します。

 

  • ローラが人間に!!

 「ゆらめく大海原(オーシャン)、キュアラメール!」おそらくプリキュア史上いちばん足を見せつけてくる変身バンクでしょう。ペディキュアがきれいです。おお、お高貴…

 プリキュアになってもいつも通りやる気パワーカムバックをしてくれるのは嬉しい。そしてシンクロナイズでビクトリーをキメるキュアラメール。足高らかです。

 変身を解除するとなんとローラに足が生えています。「わたし、人間になれた〜!!!」とはしゃぐローラ。みんなも喜びます。

そして次回からは正式に転校生として学校に入学します。これからの展開に目が離せないですね!

 

感想

 

 プリキュアの功績のひとつは、女の子にちゃんと「怒る」ことを肯定した点だと思います。『ハートキャッチプリキュア』が象徴的ですが、名乗りのセリフが「私、堪忍袋の尾が切れました!」と「海より広い私の心も、ここらが我慢の限界よ!」です。

 今回のローラも「絶対に許さない」という強い気持ちがプリキュアのトリガーを引きます。誰か(大切な人)のために怒ることができるのがプリキュアなのです。まさに初代の「女の子だって暴れたい」を継ぐ、変わらないプリキュアの精神です。

 

  • 人魚が人間になる是非

 今回一部で物議を醸しているのは「人魚であるローラが人間になることの是非」です。人魚に誇りを持っていたローラがそこまでの迷いもなく人間になるのは確かに多少の違和感を感じます。

 ただし今回のプリキュアのコンセプトが「いま一番なことをやる!」ですから、それに則ったローラの選択は最適解でしょう。

 もちろんこの選択があとで尾を引くことは確かでしょう(人魚だけに)。

 具体的には本好きのみのりが言っていた人魚の「等価交換の原則」です。足と引き換えに美しい声を失った原作の人魚。そんな人魚のありかたを一蹴したローラですが、今後は彼女の身に代償が降りかかるでしょう。「美しく儚い」人魚のイメージをその高慢さ(褒め言葉)で覆してきたローラ。今後もどんどん欲張っていろんな困難を跳ね返していってほしいですね。

 

  • あとまわしの魔女とローラ

 ローラは王女さまのことを王女さまと呼ぶので、おそらく血縁関係はないか遠いと思われます。そして今回の所業を見ていると、あとまわしの魔女がローラのお母さんである可能性が浮上してきます。

 あとまわしの魔女がローラのお母さんだとすると、途端に今回の話が「娘の願いにいち早く気づいて、その願いを親切で叶えてあげようとした優しいお母さん」の話となります。それを「あなたの力は借りない」と突っぱねられたのはちょっとかわいそうです。

 

  • あとまわしは悪いことか?

 そう考えるとあとまわしは努力せずに願いを叶える親切心にも繋がります。努力をあとまわしにしても生きていける社会は魅力的です。敵幹部のチョンギーネが社畜からやる気パワーを奪って、会社に行かなくてもいいと言った回は賞賛を浴びました。チョンギーネは本業はコックですから、魔女のために伸びない麺を開発しました。あとまわしのために技術が発展することがわかります。

 あとまわしの魔女たちは本業じゃないのに魔女のためにかったるいながらもプリキュアと戦っていて、いい人たちです。仲も良さそうでなかなか良い職場です。

 この「あとまわし」とどう折り合いをつけるかが今後の注目ポイントですね。

 

終わり

今後のプリキュア

  • ローラの等価交換
  • ローラとあとまわしの魔女の関係
  • 「あとまわし」とどう折り合いをつけるか

に注目です。今後が楽しみですね!!!